1927年に生まれたマーティン・ウッドは、ケンブリッジ大学で工学を学びました。彼が卒業した頃の英国はエネルギー不足と人手不足に悩まされていました。エネルギー危機を克服するために、英国政府は「ベビン・ボーイズ」と呼ばれる若者たちを炭鉱労働者として徴用しました。マーティン自身もその労働力として、週6日、主に地下の炭鉱で働くという過酷な仕事を数年間続けましたが、後に「この仕事を通じて、工学的な問題を独創的に解決する方法を学ぶことができた」と述べています。
その後、オックスフォード大学のクラレンドン研究所に入り、研究所内の研究機器の製造とメンテナンスを担当しました。水冷式のビターマグネットや小型のクライオスタットなどの研究機器を担当していましたが、研究室の責任者であるNicholas Kurti教授からは、多大な指導を受けたとマーティンはよく言っていました。
世界中の研究者がクラレンドン研究所を訪れると、「自分の研究所にも同じような機器を作ってほしい」と頼まれることが多くありました。マーティンはできる限り協力しましたが、このような仕事は、大学ではなく民間企業が行ったほうがよいと考え、1959年にマーティンと妻のオードリーは、庭の物置を片付け、工具や機材を置いて、オックスフォード・インストゥルメンツを設立しました。マーティンは、大学を退職したばかりの技術者を採用し、製品を製造して顧客に出荷しました。研究用の超電導マグネットやクライオスタットを先駆的に製造することで、事業は徐々に成長し、会社は国際的に拡大していきました。
マーティン・ウッドと孫娘のアンナさん
(東京・英国大使館にて)
エリザベス女王の母に超電導磁石を披露する
マーティン氏
マーティンには、アイデアを共有する独創的な人たちと信頼関係を築く才能がありました。また、チャンスを見極め、優秀な人材を登用することにも長けていました。主な例としては、英国を代表する2人の科学者、Rex Richards教授とPeter Mansfield教授とのつながりが挙げられます。彼らのブレークスルーにより、オックスフォード・インストゥルメンツは、1970年代から1980年代にかけて急成長した高分解能NMRマグネットとMRIマグネットの市場に参入しました。
マーティンがオードリーと4人の子供たちと一緒に初めて日本を訪れたのは1969年、イギリスからシベリア特急に乗って7日間かけてウラジオストクに到着し、そこからフェリーで日本に渡ったときの事でした。そこから。当時、東京の六本木にあった固体物理学研究所でマーティンは日本の顧客と出会い、その中の一人の教授が国際文化会館を紹介してくれました。マーティンは終身会員となり、日本に来たときは必ずここに泊まりました。国際文化会館にお客様をお招きして食事をしたり、美しい庭をオックスフォードシャーの自分の庭と比べたりして、とても楽しんでいました。国際文化会館は、特別な日にディナーを楽しむのにも、コーヒーを飲むのにも、とても良い場所です。国際文化会館を訪れれば、マーティンがここでの滞在を楽しんだ理由がすぐにお分かりいただけると思います。
1960年代、初来日と同時期に撮影されたマーティンとオードリー
マーティンとオードリーの来日時、生涯の友である三浦登教授と清子夫人と八ヶ岳で
マーティンは、1966年に初めて開催された国際低温工学会議ICECの創設メンバーであり、その後も永きにわたり諮問委員を務めてきました。2012年に福岡で開催されたICECに最後に出席し、250人以上の参加者を前に40分間の基調講演を行いました。
マーティンは、日本の科学者の精密な技術と革新性に多大な感銘を受けていました。最初の訪問で出会った科学者の一人が、日本極低温学会の会長である神田教授でした。神田教授は、焼結銀製の熱交換器を開発し、3He/4He希釈冷凍機の温度を10mK以下にすることに成功しました。マーティンはこのアイデアをイギリスに持ち帰り、オックスフォード・インストゥルメンツの製品に導入しました。
マーティンは、英国を訪れる日本の科学者を家に招いたり、仕事やプライベートで助けてくれる人を紹介したりして、いつも歓迎してくれました。多くの場合、彼らは生涯の友となりました。三浦登教授と鈴木治彦教授は、1970年代に2年以上イギリスに滞在しましたが、マーティンとオードリーが彼らの家族がイギリスに馴染むように温かく迎えてくれたことを覚えています。
1980年代、日本の皇太子殿下(現天皇陛下)はオックスフォード大学に留学され、「A Study of Navigation and Traffic on the Upper Thames in the 18th Century」という論文を書かれました。 マーティンはテムズ川のすぐ近くに住んでおり、ある日川沿いを歩いていると、スケッチをしたりメモを取ったりしている若者に出会いました。マーティンは彼に話しかけてどこから来たのかと尋ねると、その男性は「東京から来ました」と答えました。マーティンは、インターナショナル・ハウスによく泊まっていることを説明し、この近くに住んでいるのかと尋ねました。皇太子だったその男性は、謙虚に「そうですね、かなり近いですよ。実は父が皇居に住んでいるんですよ」と答えました。マーティンと皇太子殿下は親友となり、マーティンは大学滞在中の皇太子殿下の相談相手となり、来日した際に皇太子殿下をしばしば訪問しました。
日本人の謙虚さに感銘を受けたとマーティンはよく言っていましたが、その一例として、イギリスの大学に新設された工学研究所の開所式に世界中の人たちと一緒に招待されたときのことを挙げておきます。
マーティンはそこで一人の男性と出会い、「あなたのエンジニアリングの専門分野は何ですか?と質問しました。その男は、「車とエンジンが専門です」と答えた。マーティンは次に、どの車が一番いいのかと尋ねた。その男はこう答えた。「私の名前が入った車はとてもいいですよ、これが私の名刺です」と答えた。名刺には「本田宗一郎 本田技研工業株式会社 創業者兼会長」と書かれていた! マーティンは、本田氏とも長年にわたって連絡を取り合っていました。
マーティンは、約40年後の1998年にオックスフォード・インストゥルメンツの取締役を退任しましたが、ビジネス、特に日本との関わりを持ち続けたいと考えていました。私たちが、日本と英国の協力関係を深めるために、若い科学者を奨励する「サー・マーティン・ウッド賞」の創設を打診したところ、彼は即座に同意してくれました。
マーティンは毎年来日し、直接賞を授与していましたが、年齢的に渡航が困難になったことを残念がっていました。しかし、受賞者を自宅に迎え、温かく迎え入れ、研究内容や日本での生活について質問をすることを大いに喜んでいました。彼の最大の喜びは、お客様に自宅の庭を案内し、そこで育つ自然の植物や美味しい野菜について説明することでした。
サー・マーティン・ウッド賞受賞者である名古屋大学の岡本佳比古博士を自宅に迎えるマーティン・ウッド
駐英日本大使より「旭日中綬章」を授与されるマーティン・ウッド卿
マーティンが手にしている本は、著者である現天皇陛下から贈られた「The Thames as highway: A study of navigation and traffic on the upper Thames in the eighteenth century」
2008年、マーティンは日本政府から旭日中綬章を授与されました。ロンドンで行われた授与式は、駐英日本大使が主催しました。日本人以外の受賞者は年に数人しかおらず、科学界の人間が受賞するのは珍しいことなので、マーティンはこの賞を特に誇りに思っています。
オックスフォード・インストゥルメンツの他にも、マーティンは多くの企業を設立・投資したり、いくつかの慈善団体を設立したりしています。マーティンは、常に大きな熱意と情熱を持って新しい事業を始め、他の人々を勇気づけていました。また、マーティンはすべてが成功するわけではないことを理解していたので、ビジネスや組織が期待通りに成長しなかった場合は、なぜうまくいかなかったのかを教訓にして、新たな活力をもって新しいことに取り組んでいました。
オックスフォード・インストゥルメンツ株式会社、フェロー
トニー・フォード(Tony Ford)
「私は、オックスフォード・インストゥルメンツに入社した当初から、40年以上にわたってマーティンを知る機会に恵まれました。その間、彼はほとんど変わることなく、常に励ましと手助けをしてくれました。私は、彼が機知に富み、楽観的で、創造的であったという事実を個人的に目にしています。彼は私の友人であり、指導者であり、出会った人たちの人生を豊かにしてくれました。マーティンは、自分が関わったすべてのことに一生懸命に取り組み、その結果が失敗であっても決して気にしませんでした。流行や仕掛けに左右されることなく、ただ新しいことに挑戦し、学び続けることが好きな人でした。また、誰に対しても礼儀正しく、親切でした。王族や国家元首と接するのと同じように、一般人とも打ち解け、誰に対しても同じレベルの敬意をもって接していました。マーティンは、2011年の東日本大震災の後、英国から最初に私に連絡をくれた人物で、日本にいる知り合いのことを心配してくれました。最後に会ったのは2019年の夏、オックスフォードシャーの自宅を訪ねたときで、マーティンは精力的に活動し、笑顔で気さくに話しかけてくれました。それは楽しい、しかし悲しい思い出です。
マーティンは生きる喜びに満ち溢れた人だったと記憶しています ! 」
写真左からオードリー夫人、マーティン・ウッド、Dr. 山本(理化学研究所)、トニー・フォード